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沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

第2回研究会 下

○島仲徳子氏  先ほど触れました文化に関することですが、ここで、「沖縄の住民は沖縄の独自の文化を共有し、発展させる権利を有する」とあります。で、ここに付け加えてはいかがでしょうか、という提案なのですが、ここに、「独自の文化を創造し、享受し、発展させる権利を有する」、あるいは、今、「文化権」という権利については、まだよく知られていないというか、確立されていないようですけれども、ここに、「文化権」という概念を、沖縄州は、はっきり打ち出すことが必要ではないかと思います。

文化を創造し享受する権利は、人が生まれながらにして持つ権利であること、自由権としての創造権、社会権として文化にアクセスし、それを享受する権利、そしてもう一つ、文化を自分たちで決める自決権、あるいはアイデンティティを確立する集団的権利としての、私たちの文化権をはっきり出したほうがいいのではないかと思います。

平成13年に「文化芸術振興基本法」という法律ができました。文化行政をしていく上でのよりどころだと思いますが、中身は「文化」というよりも、より、「芸術」に力を置いたような法律です。とても気になるところは、27項目ぐらいの国の役割、責務みたいなものがあり、そのあとに、地方公共団体はこれに準拠してそれぞれの政策を展開する、というふうな記述があります。今の地域主権の時代において、非常に逆行するような考え方の「文化芸術振興基本法」がある。そこを踏まえた上で、沖縄州が独自の州法律をつくるのであれば、「G2案の沖縄の独自の文化を共有し発展させる権利は、自治教育権の観点を強調」とありますけれども、私もやはり、文化権という概念をここで強く出したほうがいいんじゃないかと思います。6に「文化権」という言葉はどこにもないのですが、ただ「文化を享有し」だけでなく、ここに、「創造し」とか入れて、文化権の考え方を入れたらいいのではないかなと思います。


○難波田到吾氏  そうですね。


○玉城和宏氏  やはり、いろんな議論をお聞きしていて、非常に重要なサゼスチョンがあり、そしてサゼスチョンから自然に流れていく微細な構造も入っていて、その微細な構造の部分というのは、後々こういう発展させる権利を有するというかたちで、自治基本法の中に込められるんじゃないかなと。だから、基本法のなかに自己発展系、自己形成系といいますか、そういう視点をやはり今、島仲さんが言われたような感じで入れていくと。そういう形すなわち発展形式で新しい条項が必要であれば盛り込むことができるという、そういう形態を、文言を考えて頂ければなという思いが一つと。私自身は国とか県とか、ややもするとスーパーパワーの属する部類の組織というのは、やっていいこといけないこと、これを明確に書くことが必要だと考えています。もし、国が、あるいは県がそれが必要だという時には、国民に諮ったり、あるいは県民に諮ったりという、そういうことが必要じゃないかと。僕が気になっているのは、日本の裁判官も全部そうですけれども、明治憲法の虜になりすぎていて、つまり国民をコントロールするために、憲法や法律に書いていることしかやってはいけませんよと。それ以外はお上に聞きなさいと。だから常にお上に聞くというプロセスというか風土が作り出されていて、本土全体、日本全体が主体という部分を見失っているんですよ。沖縄だけじゃなくて。現状認識としては、私はそう思っていて、憲法に書いてあるというのを、もっと明確に出して、スーパーパワーがやっていいこと、やっていけないことをはっきりさせ、そして、それがもし必要というふうに考えるならば、国民に信を問うたり、あるいは代議士なんかで議論していただくという、そういうことを是非項目の中に入れてほしいというふうに思います。


○藤中寛之氏  教育と学習に関する自治の権利のところなんですけれども、非常に文化とか、教育とか、重要であるという形で独自のものをという文脈は、すごく自分自身もそう思うんですけれども、浜崎さんが先ほど指摘されたように、どうしても財政の問題が入ってきまして、そのことを考えますと、今の流れというのは、自分自身も実際文化に関わっているからとっても思うんですけれども、補助金がこないと、教育に関しても国庫負担金というのは非常に削減される方向で、その中で効果的・効率的な運営の仕組みというのを考えていかないといけないという切羽詰った状況がある中で、実際、道州制というのが導入されてきておりまして、この試案をつくるに当たっても、道州制の導入ということを考えましたら、文部科学省の権限とかであると思います。学校法人の設立とか、何かそういうような権限というのも、沖縄側で引き取って、それで効果的、効率的な新しい教育、公務員の制度でありますとか、そういうものを決めることができる権利を有するとかを保障しなければなりませんという後に、ちょっと付け加えたほうがいいのではないかなというふうに自分は思いました。以上です。


○島袋純氏  今の視点は忘れていましたね。要するに先ほどおっしゃられたように、州がやっていいこと、やってはならないこと。国との関係で、権限の問題でやってはいいこと、沖縄の人々との関係でやっていいこと、二つ今重なっている話ですよね。学校をつくる権利があるかどうか。この視点は今までの議論に欠けていたなと思うんですけれども、基本的人権の項目の仕組みですね、前の議論の時は大体いちばん最初の1条で権利の宣言、それから2条目で何とかをやっていい、あるいは支援しなければならないという保障。保障しなければならないという話ですね、市町村、自治体は保障しなければならない。3番目に、何々はやってはいけないという今度は禁止義務。この三つの構想がだいたい原型だったんですね。それで禁止義務を設定する必要ない場合は保障で終わると。だから、第1条で権利、2条で保障義務、3条で禁止義務みたいな、そんなイメージでずっとだいたい構成はなっているんですよ。

 それで、この仕組みを基本的に継承するのかですね、前回の自治基本条例のモデル条例のやり方、それであれば非常にちょっとわかりやすくなることはわかりやすくなるということですね。それがたった3条じゃなくて、4条、5条になる場合もあるかもしれませんが、非常にわかりやすくなると思います。それでその過程の中で、今言ったような文化の関係で、国と州が持つべき権利、例えば今の点は警察権に関しても非常に重要な問題が出てきて、警察権は今国家警察で、県警は全部国が統制していますよね。これをどう断ち切るかという問題ですね。これはちょっと今まで人権のところで、これを考える必要というのが想定、今まで僕の頭の中で及んでいなかったので、これはもう一度考え直す必要があるんじゃないですかね。


○玉城和宏氏  先ほど島袋さんが言われたように、物理的な発想でいうと作用になるわけですけれども、国の作用それから県の作用、その作用の分別、例えば教育の場合では、どんなふうに言ったらいいのか、カルチャーラルリテラシーというか、教養的、共通の日本国民全体として基本的に抑えておくべき事実とかを踏まえておく事。それからさっき文化の話をしましたから、沖縄県民として抑えておくべきカルチャーラルリテラシーとか、いろんな属性が入り込むことが可能だと。もちろん警察権にしたって、アメリカの場合だったら連邦警察だとか、州警察とか、そのへんのリンクもありますから、そのへんのリンクの部分というのは、どういうふうに設定するかという、本来それは国がやるべき話だろうと思いますけれども。一応、今島袋さん言われたように県のレベルで必要なものは、こんなものがあると。それに両立するような感じ、コンパチになるような感じで、ほかのレベルのところもやってほしいという、そういう主張をぜひ入れたほうがいいですね。それは、人権という部分の、僕は生存空間との関連で言っているのですが、その場合、スーパーパワーとかが人間に何かと作用する、統制をする、やってはいけない禁止項目とか、あるいは促すとか、そういう部分をひっくるめて作用と私は言っているのですが、そういう作用という部分はどういうふうな形に制限するべきか、あるいは促すべきかという、そのあたりの問題があるので、対象と空間と作用という、それら三つを一緒に考える必要があり、私は、三つ組みと呼んでいますが、対象や作用の実施者を含めて空間を考える、そういう概念的視点から、そういうふうに見てるんですよ。そのへんの部分がちょっとあるのじゃないかなと思って発言しました。


○濱里正史氏  ひょとしたら、がらっと話が変わるかもしれないんですけれども、基本的には民族自決権というとちょっと大げさなんですけれども、もともとここにある沖縄に住む人々の権利を保障する、どこが保障するか、まあ国なのか、自治州なのか、その役割分担はあるということだと思うんですけれども、沖縄自治州が日本に属することを決めるのは、おそらくこれはG2が基本なので言うのをやめようかなと思ったんですが、G3のほうなのかなと思うんですけれども、あまりに国がひどい場合には離脱する権利。スコットランドとか、ケベックが同じコンテクストでやっているかどうかはわからないです。何年かに1回選挙がありますよね。そういう自分の帰属をどこにするか。日本にするのか、中国にするのか、台湾にするのか、アメリカにするのか、国連にするのかと決める権利は、もともと私たちは持っているという権利を盛り込めるかどうか、ちょっと聞きたいんですけど。


○島袋純氏  国連の人権規約であります自由権規約と社会権規約は、第1条にそれを書いてあるんですよ。人民の自己決定権ですね。どういう文章か、どういう条文か具体的には忘れたんですけど、具体的には。それが書いてあって、自由権と社会権の基本的な原理というのが、1条のいちばん最初に書かれてあるんですよね。それで、それはもちろんG3ではかなり意識して、だから、だからといって国民・国家をつくってもしょうがない。それを相対化するような原則を打ち立てられることができないのかということだったんですが、この議論の中では、個々の人々の人権、一人の人権の1つとして、集団的な権利である人々、ピープルの自己決定権というのをとらえるという発想にするのか、あるいは集団というものは権利をもっているのかという、いろんな議論の対立があって、非常に難しいんですよ。それできょう誰も法律学者は来てないので、この議論はほとんどできないかもしれませんが、私の発想としては、個々の一人一人の人権として、どの集団に自分は属して、そしてその集団が自己決定権を持っているという、何か個々の人権からそういった統治機構を決定する権利というものが生み出せないかというイメージですね。
 ですが、これは法律学者ではなくて、私の頭の中で発想しているものなので、それから先行研究がどんなであるかよくわからなくて、これは全部すべて個々の人権、個々人の人権と書いてあるんですけれども、その文脈の中で乗せることができるのかちょっとわからないですね、正直なところ。


○玉城和宏氏   前に衆議院かなんかの形で、上原さんが内閣法制局かなにかに、沖縄の独立のプロセスとかあるかという話があったんですけれども、実は憲法22条でしたっけ、僕も専門じゃないのでわかりませんけれども、国籍離脱の自由というのがあるんですね。というのは、今難波田さんが持っておられる本で調べていますが、そこにあれかもしれません、国籍離脱の自由が、実際の憲法中にあると。そして、もし沖縄県民あるいは実際に沖縄に住んでおられる人たちの何割かが、国籍離脱ということをやれば、手続き的には、今、現憲法の範囲内でも私は可能でないかと思ってます。


○島袋純氏  問題は、こちらに人民の自己決定権として、それを明記して載せるかですね。G3でもし基本法をつくるとしたらこれ確実に載せる。載せないとこれは話にならないというところなんですけれども。G2のところで載せるか、載せることによって、基本的には95条の特別法を引き出してくる重要な論拠にはなると思うんです。ただ、日本の今の全体の雰囲気の中で道州制の文脈の中で考えているというレベルは通り越してしまうということがあって、それで反発は大きいかもしれない。特に中央官僚だとか、自民党だとか。問題あるんですけれども、まあ中央の省庁でどう考えるかというよりも、我々が持っている権利を、我々の生活の中から持っているものをつくり出していきたい、引き出していきたいということなので、特にこちらは純粋に民間の研究組織なんで、それでもいいんじゃないかなという気がしているんですが。


○宮里大八氏 憲法22条の国籍の離脱をした場合は、どこに国籍を置くのかなというのが、一つ疑問なのですけれども。例えば、それが今沖縄自治州という形で一つの独立した形の国家というか…。


○玉城和宏氏  専門家でないので、こういう話をしていいのかどうか、ちょっと適当じゃないと思うのですけど、一応憲法の範囲内で、所有権・財産権、そのへん全部行使をして、それから実際に公共財として使っているというのも、我々住民に対して認められた部分ですから、それらをもし生活権の体系として考えておけば、一人一人が離脱していった場合、国は「じゃお前ら沖縄から出て行け」ということは言えないだろうと。実際に人間が生活をしているということからも、世界人権宣言の中でも人権が一番にうたわれているわけですから。だからそれは、ある意味おもしろい、おもしろいというとちょっと語弊がありますけど、可能性があるのじゃないかと思っています。


○宮里大八氏  ということは、国籍は有さないのだが、現地点のその場所に留まるという、国連に申請してそれをもらえるというような流れができるのでしょうか。私はあまり想像ができないので、そうなった場合、海外旅行はどうやっていくのかという心配が、あります。
ちょっと視点が変わるかもしれませんけど、資料の2、二つ目のまちづくりに関する2、まちづくりに参加する権利と、まちづくり活動団体という権利がそれぞれありますけれども、それは先ほどお話があったようにこの人権に載せることは可能だと思います。

しかし、それよりは項目で市町村という項目にのせて、その上でまちづくりに参加するもう少し細かなレベルでの話をしたほうが、具体的な話がでるのかなというふうに思っています。

このまちづくりに参加する権利の(1)のほうに、米兵軍属を単純に住民と解釈した際にというふうにありますけれども、前、どこかの市町村で聞いた話ですけど、その米兵とか軍属の方が住んでいる場所の自治体の一角では、その軍属の方に区長さんをやってもらっているという話を聞いたことがありました。それが本当かどうかわからないですけど、その話があったので、ですから県内にもそういう具体的な事例を探せばあるのではないかと、思います。

ですから、実際にそのまちづくりにその方々が参加しているかどうかわからないですけれども、区長さんというきちんとした役割を与えられているわけですから、その人たちも沖縄の人権に当てはまってくるのかなというふうに思います。以上です。


○新崎盛幸氏  これについては、自分の中でも整理がついていませんので、先生方に質問という形になると思いますが、抵抗権ですが、先ほどの基本的人権が脅かされた場合に、沖縄は日本国から離脱というお話も出ていたんですけれども、これが抵抗権の中の1つの手段と見ていいんじゃないかというふうに認識はしています。この抵抗権が、例えば日本国内の中で国家からの基本的人権を脅かすような圧力があった場合は、抵抗権というものをすんなり受け入れられるんですけれども、例えば、この基本的人権を脅かされるという延長線上で見て、これが外国に対してなされる場合で想定すると、これが市民一人一人の自衛権という発想につながるのかどうかですね。これを教えていただきたいと思います。


○島袋純氏  抵抗権自体は、ジョン・ロックですよね。ロックが、国王が王権によって様々な人権侵害をした場合に、王の政府に対して抵抗する権利を有すると。まず貴族の中で了承された権利でしょうけれども、それが市民という概念とともに全国に広がっていくというのが流れだと思います。抵抗権をさらに政府の構成原理に変えたものが、革命権だと思うんですよ、私の理解では。ですから、その革命権の中には、抵抗権と革命権とが実質的に担保されて我々は主権者であると。主権を持っていて、政府を構成する権利を持っているということに論理的な帰結になると思う。ですから、どうしても以前のロックの哲学を具体化した憲法の中には抵抗権という言葉があったという理解なんですよね。それでその抵抗権の中には、基本的にアメリカ的になっていやになるんですけど、市民がやはり自分で自分を防衛する権利、これが原則として中にあるだろうと。ですから、基本的にこういったことがアメリカの民兵の原則だとか、精神だとか、あるいはアメリカの右派と言いますか、右派が自由主義者だったりするんですよね。そういったものに結びついているんではないかなと。

 それで基本的には、その延長線上で国家防衛も原則的には考えるというのがロック的な発想じゃないかなと。アメリカの国自体も、非常にロックの精神に基づいてつくられた人工的な国なんですけれども、原則としてみんなが、個々人が自己防衛し、その自己防衛の集合体が州であり、さらにそれが国家であると。万が一国家だとあまりにも遠すぎるので、個々の人権を侵害すると、銃を持って自分たち自身が立ち上がると、そういうイメージで国がつくられているんではないかなというふうな気がします。それで、アメリカ在住長期の佐藤学さんがいろいろ議論されたんですけど。


○新崎盛幸氏  多分そういう論理展開になっていくんじゃないかと自分の頭の中で勝手に想像していたんですけれども、とすると、やはりこの抵抗権というのが、その後に出てくる「自衛の戦争等を否定し」という部分と少し矛盾が生じてくるんじゃないかという気がするんですけれども。


○佐藤学氏  要するに、権利を奪う、損なう、侵害するものが、自分の属する国の政府であろうと、外国の政府であろうと、抵抗権は有すると。それに対してどのように抵抗するかというのは、何も民兵組織をつくって国民一人一人が拳銃をもって立ち向かうことだけではないし、それが一番効率が高いというか、確実に守れるわけでもないし、という発想を自分はします。だから、本当に抵抗する、確実に守ろうと思ったらば、圧倒的な軍事力を持っている自分の国の国家であったり、あるいは外国の国家に対して鉄砲を持ったって守れるわけはないわけで、それならば別の形でそれを実現する方策を考えると。だけれども、権利としてはそれを持つということだと自分は思うんですね。人の命が軽かった時代、そして政府とこっちの間の軍事力の非対象性がそんなに大きくなかった時代には民兵組織を持って鉄砲を持っていれば守れたかもしれないけど、今そんなことはあり得ない。それはそもそも不可能だとするならば、別な形でそれは実現、何かの形で抵抗する方策を考えるということを、そういう帰結になるんじゃないかと自分は思うんですけども。


○藤中寛之氏  今佐藤先生が指摘されたことについて、自分が思っていることを言わせていただきたいんですけれども、抵抗権でありますとか、自衛権でありますとか、そういう精神的な基点といいますか、そういう発想を基に、軍隊をコントロールするというシビリアンコントロールのものに行き着くんじゃないかなと思いまして。

 G2のグループでも実は指摘されているんですけれども、人権のところの(5)ですね、「知る権利は憲法に保障された権利であり、特に主権者の政治的判断にかかる情報は、軍事情報を含め、徹底的に公開されねばならない」とあります。この軍事情報とかを、本来は自分たちがそういう自衛権を持っているという前提の中でしっかり検証して、沖縄にこれだけ、具体的に言えば基地はこれだけあるけれども、それは問題ではないのかという論争を巻き起こす、それでその正当性をしっかり国会等で評価されたら総意が形成されて、本来軍隊はこんなに必要ないというというような話に行き着くとか、そういうケースが想定されると思いますので、実際には武器を持って戦うとか、そういうわけではなくて、そういう歴史的な発想の基点みたいなのを  持つっていうんですかね。なんかちょっとなかなかしっかりいろいろ議論しないといけない問題だと思うんですけども、そういうふうに自分は思います。以上です。


○島袋純氏  これ今思いついたんですけれども、玉城さんがさっきおっしゃられた生存的空間という言葉でつなげれば、平和的生存権と抵抗権って重なるっていうか、まとまることができるんじゃないかなというイメージです。要するに自分の生存的空間、生存空間を確保する権利ということですよね、簡単に言えば。それで平和に生きていくための権利ということですよね。それで抵抗権と平和的生存権と、これ最初は一緒だったような気もするんですが、何か合併して一つの新しい権利にならないですかね。イメージ的に。


○曽根淳氏  ちょっと話を聞きながら、引っかかったんですけれども、そういう生存的空間とかいうも
のを、全体的に非常にフラットな考え方で米軍の基地の中も対象とする。さっき宮里さんが言ってましたけど、なんばたさんが二つ視点を示されていて、米軍個人の人の人権というものを守っていかなければいけないんだろうと。だけど心配として、その場合に、住民と単純に解釈した場合どうだろうかと。前は全然気にしなかったんだけど、極端に考えていくと、例えばある基地に米軍が100万人の人を送り込んだとして、この人たちの生存空間を中心に考えていけば、多数決の意思決定がなされれば、その人たちの生存空間に合ったまちづくりが可能になってしまうわけですよね。この基本条例の基本的考え方としては、米軍基地を範囲に含めるためには、積極的にその米兵の人の人権も認めていこうという考え方なんだけども、それを突き詰めていくと、どかっと100万人とは言わないけど、10万人も送り込まれれば、その自治体においては、その米軍の人たちがまちづくりの主体になるわけなんで、このへんはどうなるんですかね。


○難波田到吾氏  実際イスラエルがやっていることは、そういうことですよね。


○屋嘉比収氏  兵士の滞在期間のサイクルっていうのは、非常に短いですよね。沖縄にずっと同じ人が10何年もいるわけじゃない。ある程度は、その何年間という制限によって、僕は十分に対応できると思っています。例えば、何十万の兵士が来て、彼らが地域の主導権を握るんじゃないかということは、滞在何年間という制限をつける技術的な対応によって、十分にできると思います。
 ちょっとマイクを持ったついでに言いますが、今の議論で非常に興味深かったのは、むしろ我々がイメージしているその抵抗権とか、あるいは革命権という、そのイメージそのものは私たちが壊さないといけない。さっき佐藤さんがおっしゃったように、抵抗や革命というと、武力を持つ形の抵抗というイメージがこびりついているわけですよね。しかし、抵抗権は消して武力と重なっているわけではない。そうではなくて、平和的生存権と抵抗権が重なっている。私たちがイメージする抵抗権のその幅といいましょうか、そういうことをどんどんこちら側から提起していく作業こそが重要ではないでしょうか。むしろそういう意味で言うと、今の日本国憲法の中に、抵抗権や国家からの離脱の権利まであるというのを再確認すると、僕は改めて憲法の奥深さというのを再認識した気がします。むしろ、抵抗権を武力と重ねている我々のイメージの貧困こそ変えるべきではないでしょうか。議論を聞いていて、私は、そのような印象を持ちました。


○玉城和宏氏  生存空間の話が出ましたので、もう少し詳しく話しますと、生存空間というのは個々の生物、個体のレベルでの生存空間。それはもちろん環境に影響したり、その周りの組織に影響したりします。それからある属性を持ったような集団があったら、その集団の中の外界に対する作用、またはプレゼンスという、そういうものが必ず影響してきます。歴史的に太古の古代国家という形を見てみますと、おサルさんもそうですけど、集団になって安全を図るという、そういう基本があります。それで対外的に他の部族がいた場合に、争いとかがあり、アフリカの場合ですと、それが形骸化して、ただ単に戦争する真似をして、互いに対峙して、それで終わりという、そういうのも残っているんですが、基本的に他のパワーが入ってきたり、そこの中にも生存権があるんだけど、グローバルなレベル、あるいはミディアムなレベル、ミクロのレベル、からの作用のレベルと分けて考えていただきたい。その作用がどういうふうなレベルで効いているのだという、そこの視点を持ってもらって、我々の生存はこういう諸々の力、パワーとか、制限とか、そういうもので成り立っているんだと。だから予定される力が出てきた時には、それに対しての抵抗権みたいな話じゃないけれども、それもまた付け加えて、オフェンシブな形ができるようにしておけばいいんじゃないかなと思います。ディフェンスだけじゃなくて。以上です。


○島袋純氏  僕は、生存的空間という言葉はいいなとは思ったんですけど、できるだけ、本当は地域という言葉は玉野井先生がやった地域という言葉で置き換えられないかなというイメージがとてもあってで、その意味はこうですよというような説明要因として言葉を使ったほうがいい、要するに何でかというと。


○玉城和宏氏  これ数学的用語で、空間という概念使って簡単にできる、そのほうが私は書きやすいので。


○島袋純氏  具体的な文章を持っていく時に、というのは、要するに例えば戦前の日本は生命線という言葉とか、自分たちが生きていくために必要な空間はこれだけですよと設定して大きくしていったんですよね。そういった問題があるんで、基本的にはやはり生きていく磁場という意味でですね、それで地域とか、やはりそういう言葉に置き換えていったほうが、ほんとはいいんじゃないかなと思います。


○屋嘉比収氏  「共同体」という言い方を当初は使用していて、それが玉野井先生の議論の中で、だんだんと「地域」へと変わっていきます。その後で、生態系の問題とか、あるいは生命系の問題へと移っていきます。また、晩年先生がよく強調していたのは、具体的な場に対するアイデンティファイの問題です。場に対して空間はたしかに普遍性を持つけど、なかなか一体化し得ない。しかし、場というのは、さっき島袋さんは磁場という言い方をしていましたけど、やはりそういう具体的な場に一体化するアイデンティティの問題とも重なってきますので、むしろその点が重要性だと認識しています。


○玉城和宏氏  理系のほうなものですから、ああいう磁場の話を聞くと、ちょっと一応お話していたほうがいいと思う。例えば、我々沖縄のほうにこういうフィールドがある。それを、例えばお金というのを磁場と考えてください。日本政府が、がばっとお金を出す。お金を出したらそれに人が群がって、鉄が磁場に反応するように、人がバーンとそこに向きますよね。向いた時にその人の下にまた人がさらについてきますね。そうすると、実は我々の空間のサイクル、循環が、いろいろなミクロな循環、マクロな循環、いろんな循環があって、全部うまく共存していたにもかかわらず、大きいお金、大きい事業が落ちるために、磁場的・磁気的作用があるために、そこに全部方向が向いてしまう。方向が向いてしまった時にはどうなるか。下のほうの空間が全部壊されているんです。だから、例えば後進国というと語弊があるので、後開発国とかの援助の場合でも同じです。お金はたくさん出すけれども、基本となる底のほうのサイクルを、小さいサイクルとかいろんなサイクルをつくってないのですよ。だから自立できないわけなんです。だから、本来磁気的作用という形でお話をする場合には、そういうふうな悪い面も少しある。だから、空間の中のサイクル、いろんな微生物のサイクルから、我々人間のサイクルから、いろんなマクロなサイクルもありますので、そのへんも考慮に入れて、言葉を使っていただけたら。


○曽根純氏  何となくそのイメージが少しわかりましたね。ですから、その権利を何のために保障するかと言ったら、やはり沖縄の中で人が生きていけるような社会の仕組みとか、サイクルをどう担保していくかということを、定義づけられればいいということですよね。


○佐藤学氏  具体的にどういうふうに何を盛り込むかと、相当昔に、しばらく前に島袋さんが言った、教育と学習に関する自治の権利、それから平和的生存権、言葉どうするにしろ、ここのところが中心になる。あと情報のところ、また少し話は戻りますけど、そのへん。あと具体的に何を盛り込むかを考えて話をまとめないと、なんばたさん大変だろうと思うので、どうでしょうか。


○島袋純氏  今出てきた議論としては、人民の自己決定権、まず、とりあえず出してみましょうね。それで後で削除するとしたら削除するという人民の自己決定権、それから、ちょっと順番よくです。平和的生存権、それから環境権、それから抵抗権、とりあえず分離して抵抗権、あと平和的生存権との関係で一体化するかどうかというのは後でまた議論するとして、まちづくりに参加する権利は抜いて、教育と学習に関する権利は置いといて、これと独立させて文化権。それからまちづくり活動団体は抜いて、それから情報の共有というのは、これ権利の言葉になってないので知る権利と自己情報統制権、こんな言葉あるんですかね。自己情報コントロール権ですか。


○難波田到吾氏  まあ、英語か日本語かの。


○島袋純氏  とりあえず自己情報統制権としておきますか。自己情報管理権ですか。管理権のほうがいいですか、統制権より。まあ、細かい名称はまたあとで。さっきの基本的な精神は自分の情報は自分でトレースして、自分で削除もできるし自分ですべて統率できるということですね。それからあとは、憲法上に保障もされているけれど、平等権と自由権。この中で、平等権は置いておくのか置いておくべきではないのか。自由権に関して置いておくべきか。これは議論が進んでいないんですけど、自由権に関しては、基本的に身体拘束をする権利があるということで、その部分に関しては、意識的に書いておく必要があるだろうと、今までの議論はすべていると。こんなものじゃないですかね。これをおそらくみなさんはなんばたさんが書き直して出してくると同時に、また一人一人が考えてMLの中でやりとりしていくということが必要になりますね。これはおそらく、もう1回、朝の9時から夜の9時まで会議をやらないといけないですね。ということにいつかはなるかと思いますが、とりあえず話で出てきたところを全部まとめていって、基本的な考えはある程度共有できたと思いますので、これを文書化していくという作業が必要だと思います。他に何か抜けている権利とか、概念とかありましたっけ。


○難波田到吾氏  先ほど玉城さんが提起された、強力な磁力が、作用が発生した時にという観点から、先ほど濱里さんが言われたマスコミの影響力ということいわれましたよね。あとマスコミ以外でも、地域で非常に強い影響力を持っている民間企業等もありますよね。そういうようなものについてどう考えるかという。要はその地域の中でとても大きな力を持っている公的権力以外の力ですよね。そんなものをどう位置づけるかという視点もちょっと必要なのかなというふうに。


○島袋純氏  僕がイメージしたのは、知る権利と情報の統制権に関して、これは基本的にメディアは確実に、直接的に絡む話なので、そのメディアが自分をさらし者にしない権利ですね。自分の肖像権とか、自分の文書、自分の写真を勝手にメディアに使わせない権利、それでかってに使ったらそれを訴える権利と、この中に突っ込むことができると思うし、それから文化に関しては、文化の権利に関して、何とか国は保障しなければならない促進の部分ですね、その部分、やってはならないということで、国と自治州と、その両方の役割があると想定したんですが、その中にメディアというのを入れたらどうでしょうかね。


○難波田到吾氏  今、例えば個人情報保護法案や人権擁護法案の中で、かなり公権力がメディアに介入して、名目的にそれらの人権なり個人情報を保護しようという文脈の法案になっているわけですね。そうではなくて、メディアとか企業に関して、何か違うアプローチの仕方、例えば住民参加というようなアプローチの仕方でもって、メディアによる権利の侵害を抑えることができないかとか、なんかちょっとそんなことが考えられないかなと思いますけども。


○佐藤学氏  地域の企業が、なんかの形で横暴を働くのに対してどうするかというようなことです。そういうことメディアだけにかぎらないわけでしょう。


○難波田到吾氏  メディアとほかの企業、ちょっと性質違うのかもしれないですけどもね。


○佐藤学氏  公権力に対しては、そういう権利打ち立てることできるけれども、要するに私人と私人の間の関係になるので、どういうふうにするか難しいですよね。法律学者がいないとわからないけど。


○島袋純氏  プライバシーの権利と書いてないので、これが問題ですね、忘れていました。プライバシーの権利っていうのが抜けているんですよね。忘れていました。自己情報の統制権の原則の中には、やはりプライバシーの権利というのが必要なはずで、それでプライバシーの権利、例えば今なんばたさんが言った盗聴法だとか、要するに、公人のスキャンダルを暴くのをメディアに対して禁止するような法律になっていますよね。盗聴でしたっけ、何でしたっけ。


○難波田到吾氏  個人情報保護。


○島袋純氏  あ、個人情報保護か。個人情報保護という名目のもとに、公人のスキャンダル情報を暴露させないという仕組みになっているんで、逆にこっちに関してはメディアに積極的に役割を果たしてもらうようにしないといけない。だけど、一般の個々の普通の市民に対しては、そのプライバシーが侵害されてはならないと、だから両面を想定しないと、今の日本の無茶苦茶なメディアの状況というのは、改善されないということですよね。

 だから、プライバシーのところの権利というのを置くことによって、そこでメディアが公人の情報を暴くのを阻止するような個人情報保護法を、どうにか打破していって、さらに今起こっている、個々人のプライバシーの侵害をメディアが積極的にやっているような情報を禁止すると。そういうのを、両方実現できないですかね。プライバシーの権利。だから、知る権利、プライバシーの権利、個人情報のコントロール権。この三つを並列するということでどうでしょうか。


○玉城和宏氏  やはり総理大臣みたいになった、公人になった人が、我々と同じレベルのプライバシー、プライバシーというのは、もう言語道断だと私は思っているんですけれども、そういう重い職についた時には、おのずとやれることがもう決まっているという形にしてもらわないと、それにそれ以外のことをやったら困ると、例えば情報とか、いろんな美味しいものがあって漏れてきて、そしてそれはおかしいじゃないかというアピールになるので、公人になれば、特に大きい権限を付与される人であればあるほど、やれることを、明記されるべきだというふうに私は思っています。


○曽根淳氏  今メディアの話だけ出ていたんですけど、企業の横暴というのは、例えば選挙があると、この企業に勤めている、あるいはその傘下で仕事をしている人にはみんなここに投票しなさいというような、別に強制しているわけじゃないけど事実上は強制されているようなことがあるとか、あるいは企業が勝手にここに原子力発電所をつくってしまう。これに対して周りの人は、別に企業活動だから文句言えないとか、こんなことを言っているのですか。


○佐藤学氏  難波田さんがそういうことを言ったのだろうなと思ったんです。圧倒的な…


○難波田到吾氏  そうですね…


○佐藤学氏  地域では圧倒的な存在で、公的権力でないものがという、それに対してどうするかというお話だったんですよね。メディアだけじゃなくてということで。公権力ではない地域での圧倒的な存在に対して、どうするかという話を権利として盛り込むというのが、例えば、それは本来的には訴訟で解決する問題なのかもしれないなとか、権利で保障するということになじまないのかもしれないなという気はしたんです。ただそれが、ほんとにうまくいくかどうかわからない。ただこれは、G2案を下敷きにしているとすると、現行法制のもとには入らないといけないわけなので、そうすると民間企業に対して、どうのこうのということを、具体的に盛り込むのは難しいのではないかなということを言いたかったんですけども。いかがでしょうか。


○玉城和宏氏  私もサラリーマンですよね。会社のサラリーマンの場合に、日本でよく言われること、まず結婚してる、ちょっと信頼できる。子供ができる、もうちょっと信頼できる。会社のお金でローンを組んで家を建てる、すごく信頼できる。わかりますか、それ。つまり、生活は安全だけども、生活の食料空間というか、安全空間、そこの中のソースを全部組織に握られている。そういう形で、お前、じゃ、あっち行けこっち行け、こういうふうな隠然たる、表に出てこない、日本的慣習の中の、因習の中の、そういう力というのが現実には日本の社会の中にまだある。そのへんのところを取り除いていかないと、本来の先進的国家というか、文化的国家に私はならないのではないのかなと。だからそのへんの現実も少し考えておかないと。だから、難波田さんがおっしゃったのは、いろんな形を認めながら共生していくという人の生存権に対し、エネルギーソースを牛耳りながらやっていくような、そのようなものに対してどのような歯止めが可能かという、一般的に見たらそういうふうに解釈していいのかなと私はそう思いました。


○難波田到吾氏  具体的に今それに対してどういう権利保障がされているかというと、例えば労働権であったり、あと消費者の権利とか、そういうことになるんですかね。


○濱里正史氏  今の話でいくと、おそらく権利の話でなく制限の話だと思うんですけれども、マスコミにしても、公的権力にしても制限していくと。これは、基本的には労働権にしろいろんな権利は、何人も侵してはならないというのが基本原則であって、それはなんかあったら法律の中でやれる。ただし、公的権力に関しては、特別に監視していかないと暴走する可能性がある。これは特別な存在なので、別個考えましょうという現実対処から出てきた。最近の現実対処としては、マスコミとかメディアというのが、特別に暴走を食い止めないといけないような状況になったので加えましょうという話だと思うんです。確かに地域の状況でいくと、顕著な例は、水俣の窒素とかは、一企業ですけれども同じような環境権というか、生存権すら脅かしたことで、だいぶ前に玉城さんが言ったんですけれども、今完璧なものですべてを、あの100年ずっと通じるというものではなくて、そういうものが出てきたら、現実的に対処できるように。ですから、何人も侵してはいけないというところでやっておいて、その特別な存在が出てきたら、現実対処として指定しましょうという柔軟な枠組みでとらえればいいんじゃないかなと思います。


○難波田到吾氏  どういうふうにしましょう。今島袋先生が挙げた、絞り込んだ項目でも、かなりたくさんあるんですけど。


○島袋純氏  そうですけれども、やはり何々権利、何々権というのは明示しておかないと、我々が新しい権利として打ち立てたいという思いが通じないんで、それはやったほうがいいんじゃないですかね。今言ったような、平和的生存権とか、環境権とか。これは憲法上ない言葉なので、知る権利とかも、すべて今言ったやつは書いて、その中で基本的な原則は、その権利というのは、我々の社会をつくる基盤であって、それで基本的には何人たりとももっている。生まれながらにしてもっているものであって、その中で、権力体がどう関わっていくかということに関して、保障する、それから禁止義務、そういったものを規定していくと。権力体の中には、メディアというのもおそらく入るだろうと。それから、将来的にはさらにいろんな権力体が出るかもしれない事を想定しながら、組み込んだ発展する人権の内容とする。今基本的合意というのは大体得られたと思うので、その方向でまたMLの中で議論し合って固めていくしかないでしょうね。


○難波田到吾氏   というわけで、本日の人権の話についてはこれで閉じさせて頂きまして、またメーリングリスト等を通じて練り上げて行くという形で行きます。



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